ソノラのデザート

やすらぎを求めて

『呪術師と私』は、カルロス・カスタネダのUCLA卒業論文を書籍化し、1968年(日本では1972年)に発表されたものである。

前書きで自身が「これは事実であり同時に寓話でもある」と書き記した『呪術師と私』は彼が旅の途中でメキシコの少数民族を尋ねる場面に始まる。

動物の姿に変身する種族があるという噂の是非を確かめるために、その種族をたずねているうち一人の老人にたどり着く。

その老人というのがドン・ファン・マトゥスなる人物であり、そのドン・ファンとの邂逅記が『呪術師と私』である。

その著書の後ろで、この邂逅の「修行部分に関しては完全な失敗に終わった」と結んだカスタネダだったが、この邂逅がその後長く続くことになるブルホ(邦訳 呪術師)たちにまつわる寓話の始まりだった。

彼はドン・ファンの弟子となりナワーリズム(術の体系の名称)を学んでいくことになるのだ。

写真出自 学習研究社

著作に影響を受け実際にその舞台となった土地に赴く者が続出するほどだった。しかし当初は学術的な文化人類学の書と分類されていた著作も、四作目『未知の次元』が出版される頃には、作り話説が出て、以降、創作された物語であるという考えが一般的となった。

説はいろいろ出るようで、終いにはカスタネダ本人がいないという説まで出た。

五作目『呪術の彼方へ』以降、ナワリズムの若き仲間たちとの邂逅へと話はつづき、説など関係ない程の展開を見せる『呪術と夢見』、そして、もし臨界点の表記を意識に用いることが許されるならば、彼の弟子たちは、きっとその点を超え、あの世界に入ったに違いない・・・『意識への回帰』でその物語は一つの頂点に達する。

説は説として、カルロス・カスタネダの作家としての態度は立派だった。彼はもう亡くなっているが、最期まで「本に書かれていることは全て本当に起きた出来事だ」と言い続けたのだ。

それでこそ作家だ ! 称えたい。

立てこもりのような寝食の中、何か変えなければならないと発起し購入し始め、シリーズをそろえ満を持して読み始めたそれは当時の私にとって唯一の慰めとなった。

人生に立ち止まったときに思い出して読んでもらいたい。読書好きなら、きっと四作目以降も読みたくなるはずだ。

経験上、一つだけ忠告しておきたい。四作目『未知の次元』(講談社)は余程コアな読者以外スルーしていい。というより、混乱してしまうので参考程度に読む方がいいと思う。私はそうした。というのも当時四作目は絶版状態だったからだ。四作目をスルーしても話の流れは全く問題がないようになっている。

これは憶測だが、一貫してこのシリーズを出版している二見書房がこの四作目に限って版権を獲らなかったのにはそれなりの理由があったのだ。ドン・ファンのモデルとなった人物の話を信じるとすれば、当時のカスタネダは確かにおかしな状態にあったのかもしれない。しかし、もし言うように、ドン・ファンシリーズが事実と創作の入り混じった物語であったとしてもカスタネダの作品群の価値が損なわれることは微塵もない。

絶版状態だった『未知の次元』は後に講談社学術文庫に収録された。

ここでカルロス・カスタネダを紹介した理由は、彼の作家としての態度を称えたい他にもう一つ、ハリーポッターのような安直な物語ではなく、もっと大人向けの寓話を紹介したかったからだ。

人は成功を求めるものである。しかし必ずしもそうなるとは限らない。先に最初の三冊を推したのは、とてもリアリティがあったからだ。私はそこに慰めを求めた。それはある種、啓示を受けて浄化される感覚とでも言えようか。

しかし、物語性はその先の著作にある。すなわち『未知の次元』あるいは『呪術の彼方へ』から最終作『無限の本質』に至る著作のことで、そのストーリー性や記述はどれを採っても魅力的で、当時の私にとって唯一の心の拠り所となった。しかし、それも最初の三作があってこそである。

『想い出のマーニー』というジブリ作品をテレビで観たとき、アンナが昨夜いっしょに麗しい時を過ごしたアーニーの存在をすっかり忘れてしまっていることに気づき愕然とするという場面で、私は『意識への回帰』を想起したものである。「もうひとつの記憶」というような幻影の世界も待っている。

あなたにもぜひやすらぎの一環としてドン・ファンシリーズを手に取ってもらいたい。そして、その先の著作にあるカルロス・カスタネダの物語性に触れたが最後、あなたもきっとその寓話の虜になるに違いない。

カルロス・カスタネダの関連投稿へのサイト内リンク

ページトップへ

ホームページ/アーカイブに行く

と、ここまでが本稿です。

 

以降、いくばくかの私の体験やC.C著作の確認作業を交えながら、まだ未読の訪問者様にも楽しんで頂けるよう、そこには一体何が書かれてあるのかその破片を出典不問順不同で記していければと考えています。

10冊ほどあるカルロス・カスタネダが著すところの呪術シリーズともドンファンシリーズとも称されるこの作品群は途中の一編を抜いて読んだところで魅力の9割を失うことになります。ここは覚悟を決めて全編を通読することをお勧めします。そして、それこそが、本稿、当稿を投稿する当方の切なる願いでもあります。(注『呪術の実践-古代メキシコシャーマンの知恵』はハウツー本なので除きます)

実読に際しできるだけ障りのないような投稿にするつもりですが、著作本編のエッセンスをそのまま表現する場面もありますので、C.C著作未読の訪問者様には読前にご理解を頂ければ幸いです。

この見出しほどの投稿をきっかけにカルロス・カスタネダの著作群を読んでみようと思われる方が一人でもおられれば当方何よりの喜びです。また、既読の皆様におかれましても、ああそんなことがあった、と思い出す一助になればこれもまた喜びの極みです。

(以下、思い出したことなどを順次加筆していく予定です)

その実用性

この著作群が当時、唯一心の拠り所となったと本稿で記した。
起稿にあたり、己を思い返してみると、その著書による知恵が、いかにその後の事象を乗り切るのに有益であったか、いかに心が楽になったかを思い知ることにもなった。

本稿小見出しに「やすらぎ」と置いたのはそういう訳だった。

その最大の収穫が自尊心の問題を整理できたことである。これこそが私が思うこのシリーズの通底に流れる究極のテーマだと考えるので、抜粋したドンファンの言葉をほぼそのままの形でお伝えしておきたい。

自尊心をなくす

自己憐憫こそが人間の悲惨の元凶であり真の敵なのさ

自尊心というのは、あらゆる憂うつの引き金になるんだ

機会あるごとに自己憐憫が頭をもち上げてくる

自己憐憫がお前にとって役に立つのは、自分を大切だと感じ、もっと良い取り扱いを受けて当然だと感じているか、あるいは自己憐憫を引き起こすような状態を招いた行為に対して責任を負いたくないからか (後略)

自分に対する憐れみをもたなければ、人は今のようにうぬぼれてはいられなかったはずだ

唯一価値ある行動の指針は、自己イメージを制限することに尽きる

自己イメージを失くせば無敵になれるんだ

この世で一番つらいことは、戦士の気持ちをこの身にひきうけることだ

戦士は考え抜いた戦略を身につけているだけではなく自尊心からも解放されている。彼らが自尊心を抑えているのは、現実というものは私たちがする解釈だということを理解しているからなのだ

個人という考え方には何の価値もないのさ

呪術師であれふつうの人間であれ、誰をも必要としない人間の例もある

彼らは精霊から直接に平和や協調、笑いや知識といったものを得ていて仲立ちなどは必要としないんだよ

楽にして自分を捨て何も恐れなければ全て収まるところに納まる、そうなったときだけな

わかっとる
戦士の気持ちを実践するのはそう簡単なことじゃない、そいつは革命だ                       

以上、引用

ページトップへ

イーグル

その著作の中に、イーグルが人間の意識を喰らうところをドンファンがカスタネダに描写する場面が出てくる。

ある意識を喰らったと思えば別の意識はくちばしに入ったかと思いきや吐き出される。
これは、その生を終えた人間の意識が辿る描写における呪術師的見解のくだりである。

なぜ、こんなことを投稿するのかといえば、最近5チャンネルスレ(旧2チャンネル)のまとめ動画に上記場面を想起させる箇所を発見したからだ。

そこにはこうあった。
臨死体験をした彼女は斯界のコンビニと思しき店舗に長蛇の列があるのを認め、その最後尾についた。してみると、そこは斯界におけるポイントを付与される場であるらしかった。
そして、その高ポイントの付与条件というのが、新しい体験、誰もやったことのない経験、といった凡百ではない感情に対するものであった。

どうだろう? それが真相だとすれば、これはまさに呪術師がたイーグルの判断基準、つまり、「その人生が美味いか不味いかは物珍しいか凡百かによる」そのものではないのか。

善行に対してポイント加算がなされるわけではなかったのだ。
確かに、現世における究極的な二元論は善悪ではなく吉凶だとは思ってはいたが、斯界における判断基準が冒険的体験にまつわる感情であったとは・・・。

イーグルの糧になるため人の意識は存在するというドンファンの説明にカスタネダは激怒する。

もっとも、そのイーグルに吐き出されることに意味がないというわけではない。避けられたということは普通の死を回避する余地を与えられたことも意味していたからだ。

呪術師たちはイーグルという最終的で決定的な概念から離脱するため、つまり凡百な人間が迎える平凡な死とは違う旅立ちの規則を幾代にもわたり承継し確かなものに仕上げていった。

そして、皮肉にも非凡となった彼らは忍び寄りという概念にある反復という技術を駆使し己の人生を総括することでイーグルのくちばしから逃れる術を見出したのである。

ページトップへ

ホームページ/アーカイブに行く

集合点

その著書を読んで私がぼんやり理解する集合点とは、われわれ人間を人間たらしめ、かつ外界を認知認識させている光の点という印象である。

呪術師によれば、それは移動し、また移動させることもできる。もっとも、多くの場合それが移動するのは寝ているときか夢を見ているときだから、一般人が呪術師のように集合点を大幅に移動させて動物に変身したり「人間の形」(後に加稿)を失わせるのは容易なことでなさそうだ。

しかし、呪術師にとっての偉業とはその集合点を移動させることに尽きるとドンファンはいう。

そして、その集合点を移動するためにしなければならない最初の一歩が、内的対話を止めることなのである。

 

インスタント集合点移動

ドンファンによると、新しい見る者(のちに説明)は、イライラや絶望や怒りや悲しみに直面したときには
目の玉をぐるぐる回せという。

回す方向はどちらでもよく、その目の動きが一時的に集合点を移動させるという。ドンファンはそれを「意図」の本当の熟練の代わりになるとカスタネダに説明した。

夢見る者

私にも内的対話を止めるということを実践した経験がある。
集合点を移動させるため、ドンファンのいう世界を消すということをやってみたわけである。もっとも、世界を消す=集合点移動に至ったわけではない。

内的対話を止めてみた経験がある人の意見は皆同じで、とにかくうるさい。自分が自分に「何か語りかけてこい」とでもいうようにがなりたててくるのである。しかし、これは内的対話に耳を傾けている状態なのだから当然かもしれない。いずれにしろ人は心底、無口にはなれないらしい。

自分に対する言い聞かせがこの世界を継続させている。
この心のおしゃべりこそ集合点を移動する際における最大の障害となるので是非とも止めなければならない。

敢えてその先にある夢見の技法を深く実践することなく現在に至っているが、ドンファンによると、その内部の対話を止めるため用いられる主な活動あるいは技術は二つあるという。すなわち「自分の過去を抹消する」ことと「夢見ること」である。

更に「過去を抹消する」のを助けるのに三つの技術がカスタネダに教えられる。

すなわち、「自尊心を失うこと」
     「責任を負うこと」
     「死を助言者として利用する」
                    ことである。

 

 

夢見の使者

入眠幻覚や入眠幻聴は多く体験されているが、幻覚の方は思った通りに映像也が出現することが多い。特に青いモノクロ画像のベクトルでは思い通りの画像が現れる。しかし、何か新しい情報也を教えてくれたり質問に応えてくれるわけではない。しかし、幻聴の方は、明日、何々の訪問があると教えてくれたことがあるにははあったがサンプルが少なすぎ未だ確証は得ていない。

聞いたことがないだろうか、悪魔や死神などマイナスイメージのある原型でも嘘をつくことはできないということを。

先の内的対話を止めたときに聴こえた自分のがなり声とは違い、夢見の使者が現れるともなるとかなり突っ込んだ地点(内的対話を止める練度)と同時に注意すべき地点にまで到達していることになる。
これはがなり声とは違い自分のおしゃべりではないので要注意となるが、悪魔や死神と同じく夢見の使者は嘘をつくことはできない。してみると、人間というのは何とも嘘をつくためだけに存在意義があるように思うのは私だけか?

カスタネダはその夢見の使者に、終始好待遇を受け、好条件で深淵の先にある世界に移行するよう誘惑されるが、ドンファンに警告される。

 

くもの巣に捕らえられた青く光る少女

それら非有機的存在にとってわれわれ有機的存在はまさに太陽の如き存在なのだろう。夢見の使者は下にも置かず斯界のいろいろに彼を招待する。
そんななか、いつものように非有機的世界に入ったカスタネダは憐れみを乞い助けを求める青い少女をくもの巣から救いだすのであった。

これが後にドンファンの仲間たちを巻き込んだ騒動となったことが後に回顧される。

 

盟友

盟友とは非有機的存在であり、当初は煙(キノコ)の中にもペヨーテサボテンの中にもいるとされていた。これらは共に幻覚性物質、片やシロシビン、方やメスカリンを含む植物であり、それらを摂取することは盟友を知覚するための呪術師における知覚の拡張儀式といえるのかもしれない。
著書にはそれら幻覚キノコやペヨーテサボテンの芽を採取しにふたりで旅をする場面が描写されたりもする。

カスタネダによると人によってその姿の見え方が違うそれについて、それぞれふたつずつ盟友を持つドンファンやドンヘナロは普段は小さく折りたたんで耳の穴に入れたり腰にぶら下げたひょうたんに入れていたという。そしていざというときに解き放つというイメージらしい。

呪術師はそれら盟友と意思の疎通ができているのかいないのかは不明でも奇妙な友情で結ばれてはいるのだとドンファンはいう。

しかし、その著書にはしらふでその非有機的存在に会いに行くという場面が出てくる。それにはある程度の強度を持つ鏡と水が必要とのことで、ドンファンと手鏡を手にしたカスタネダは川に赴く。

ドンファンの指導のもとカスタネダはかがんだ姿勢で川の水面ギリギリのところで鏡を支え持つ。すると_(略)

非有機的存在にも種類があり、そのとき鏡の中に現れた姿はわれわれ人間と同族のものだったとドンファンはふり返る。

ドンファンも彼の師匠であるナワールフリアンに同じことをやらされ、そのとき現れたものは鏡を壊しこの世界に出てきたのだという。
どこに行ったか行方不明で、「わしはいまだにこの世界をめくらめっぽう走り回っていると思う」とドンファンはいった。

 

夢見の使者2

先に記した夢見の使者の段で、入眠幻覚の話をした。いつもはそのまま寝落ちするが、通り一遍にはいかない場合もある。

ある夜、
それは例えばタイムマシンがあったとして、その丸い小窓から外を望む感じである。誰かの立ち姿が見える。その外郭から男だと思われるそれはこちらの存在を認識しているようで、顔をこちらに向け歩いて近づいてきたが、意図が分からないことも有りその表情を見るのが怖くて大声を出し目を見開いて中止した。明らかに普段見る幻影画像とは雰囲気からして違っていたからだ。目を見開いた瞬間、「ドン !」と大きな衝撃があった。以前車にはねられた際、数日後に起きたフラッシュバックの衝撃と同タイプのものと記憶する。後には動悸が残った。

異世界に現れるといわれる「時空のおっさん」を想起し驚いてしまったのだ。あるいは非有機的存在__夢見の使者?

そのようなことを複数回経験している。

夢見や覚醒と眠りの狭間は似たようなものだと思うので、夢見の使者の段での注意をここでも喚起しておきたい。

先に記した非有機的存在のように、あちら側からこちら側に出て来られても困るし、あちら側に引っ張り込まれても困る。それに、

もし夢見の使者だとしても懇意になるのは考えものだからである。

時空のおっさんだとしたら時空を超えたことに関して問いただされこちらの世界に戻されるだけかもしれないが___。

人間の形

同じくドンファンの弟子であり、女呪術師であるラ・ゴルダはカスタネダに語る。

あの人たちの問題はわかるとかわからないとかの問題じゃないのよ。あの6人ともわかっているわ

ほんとうにやっかいなのは別のこと 誰も手助けできないとっても醜いこと

変わろうとしないで、ふけってばかりいる
努力することをいっさいやめてしまったのよ

わたしたち自身が失敗したみたいにがっかりだわ

ナワール(ドンファンのこと)はあの人たちに、男も女も戦士というのは人間の形をおどかしてふり払うために

変わることに無欠の努力を払わなければならないのだと教えたのよ

何年もそうしてはじめてその瞬間がくるって

そうすると、その形が耐えられないところまで来て、わたしのときみたいに失くなってしまうの

もちろん、そうすればからだを傷つけるわ。死ぬことさえある。でも無欠の戦士はいつも生き残るのよ

本当に変わるためには、戦士は人間の形を脱ぎすてなくてはならないの

人間の形のしがみついているかぎり、これっぽっちも変わることはできないのよ

あなたが自分は自分だと思いこんでいるのはその形のせいなのよ

それを失くしてしまえば あなたは なんでもなくなるわ

以上、引用

 

投稿者注 ここでラ・ゴルダが語る「戦士」とは力を狩る者、つまり呪術師のことを指しており、
     「無欠」とは内省を失くすという意味である

 

ドンファンもこう説明する。

人間の形というのは、ふつうの人間の集合点が固定されている場所で、意識の輝きによって照らしだされた放射物の連合がもつ強制的な力のことだ

それはわたしたちを個人にしている力なのだ

戦士たちの活動によって、ある瞬間、彼らの集合点は左に向かって漂いはじめる

それは永久的な動きで結果として

ふつうではない超然とした感覚を生みだす

あるいはコントロール、または気ままとさえいっていい感覚だ

そのように集合点が漂うことには放射物の新しい連合がともなう

それは一連のより大きな移動の始まりとなる

見る者たちは、この最初の移動を「人間の形を失くす」と呼んだ

なぜならそれは

集合点がもとの位置から移動することを意味し、その結果わたしたちを個人にしている力との関係を後戻りできないほど失わせてしまうことになるからだ

以上、引用

 

呪術師の偉業は集合点を移動させることにある、とドンファンはいう。集合点の移動を支配するためにはエネルギーを必要とする。

そして、そのエネルギーをたくわえるのは自分の無欠性、つまりラ・ゴルダ語りの引用注にあるように内省を失くすことだけであり、だからこそ呪術師は自尊心を撲滅させなくてはならない。

更にそのことは「過去を抹消する」こととも深くかかわっていくのである。

人間の鋳型(いがた)

本編によると、ラ・ゴルダが目撃した人間の鋳型とは裸であり、ボッと輝くキリストのごとく姿であったという。更に水辺で目撃されることが多いとも。

ドンファンによれば、その人間の鋳型というものを見るとき、その見え方は集合点の移動しだいなのだという。

移動が水平方向なら鋳型は人間になり、

移動が人間の帯の中央部分で起これば鋳型は光になるのだ。

更に、人間の鋳型を見る位置は、「夢見のからだ」と知覚の障害物が現れる場所にひじょうに近いという。

彼によると夢見のからだと知覚の障害物は集合点の位置なのであり、また、その知識は見る者にとっては決定的な重要性をもっているという。

その両方ともが何年もかかって訓練した末になしとげられることなのだ。

投稿者注 見る者とは、古代トルディックの呪術師からの系譜をいい、ドンファンの師であるナワールフリア                  ン以降は新しき見る者とされているようである。

 

 

夢見のからだ

その著書では「夢見のからだ」のドン・ヘナロに会い驚くカスタネダが描写される。

カスタネダがドン・ヘナロと思ったその部屋の床に寝そべってこちらに背を向けている男は不器用に立ちあがるや壁に向かい歩きだし、驚くことに壁を直角の状態で歩き天井を逆立っち状態で歩いた。

後にドンファンから、そのとき目撃したものは、ヘナロの夢見のからだがやってのけのだということをカスタネダは知らされる。

もちろん、夢見のというくらいだから、「夢見」に精通し訓練をした者にしかできないことのようだが、つまりは、夢見の注意力を保ったまま、その状態で現実に行動するということだ。もちろん行動するのは肉体ではなく夢見のからだである。

そのあたりのヒントが『夢見の技法』中でドンファンにより語られている。

夢のなかで、そこにあるものの画像を固定できたとき
実際は集合点を夢見の地点に固定したんだということを忘れるな

そして(現実世界で)自分が夢のなかにいるようにあの葉を見つめる

これは違いはわずかだが意味深いバリエーションなんだ

つまり、おまえは日常世界の意識のなかで、あの葉に夢見の注意力を固定していることになるんだからな

以上、引用

 

カスタネダによると、その夢見のからだであっても眼の部分だけは複製するわけにはいかないようである。

そこには黄色く輝く光が灯されていたとその著作には記されている。

 
投稿者注 ドンヘナロはドンファン同様ナワールフリアンの弟子でありドンファンと同列の人物

忍び寄る者

呪術師の活動の目的()が、集合点の移動にあることはドンファンの言葉から明らかであるにしても、どのようなレッスンによるものなのか。

それはおおまかに、「夢見」と「忍び寄り」による。

カスタネダがドンファンの弟子となった当時、ドンファンにはすでに4人の弟子がおり全員夢見る者だった。

先のドンヘナロにも3人の弟子がいてみんな忍び寄る者だった。

それぞれ、夢により集合点に揺さぶりをかけその移動を促す方法が夢見であり、振る舞いにより集合点に揺さぶりをかけ集合点移動を促す方法が忍び寄りである。

忍び寄りは別名コントロールされた愚かさとも呼ばれる。

夢見と忍び寄りの違いは、あたかも企業体における内部留保と民法における心裡留保との違いとでもいえばよいだろうか?
夢見にはエネルギーを蓄える側面があり、忍び寄りには大芝居の側面があるからだ。

先のドンヘナロの夢見のからだはもちろん夢見による産物のひとつであり、著作にはその他にも今度は目覚めているときの振る舞いとして忍び寄りの実践場面が多く語られている。

トナールとナワール

忍び寄りは現実世界での振る舞いということでトナールの側面と位置づけられる。トナールとは未知を含めたわれわれ人間が知ることのできるすべてを指し、ナワールとはトナール以外のすべてであり、われわれ人間が知ることのできないものすなわち不可知を指し夢見により探索される。

 

知ってみれば、このシリーズ全般にわたり書かれているそのほとんどが集合点移動のためにする夢見と忍び寄りの修行にまつわる事象だったことに気づく。

投稿者注 (※)あくまで初段階の目的であり、究極の目的がまた別にある。それは実読して感じてほしい

以下、工事中

(今後、このサイトの存在意義である「どこまでできるか実践中」に法り、完成過程も含め稿を進めていきたいと思います) tonboy.x 2023.11.26

ページトップへ

ホームページ/アーカイブに行く

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください